夕焼け小焼けの
赤とんぼ
@オわれてミたのは
いつのヒか
山の畑の
桑の実を
小籠に摘んだは
Aまぼろしか
(以下略)
問一 −−−@「オわれてミたのはいつのヒか」の部分について、
(1)カタカナは漢字に直した上で、文字の形、大きさを整えて、ていねいに大きく書きなさい。
(2)この詩の中で「オわれて」とは、どういうことですか。具体的に答えなさい。
問二 −−−A「まぼろしか」とはどういうことを言っているのですか。分かりやすく説明しなさい。
(05年 筑波大駒場)
入試問題に挑戦第142回解答
問一 @「オわれてミたのはいつのヒか」の部分について、
(1) カタカナは漢字に直した上で、文字の形、大きさを整えて、ていねいに大きく書きなさい。
(解答)負われて見たのはいつの日か
(2) この詩の中で「オわれて」とは、どういうことですか。具体的に答えなさい。
(解答例)まだ幼い日に、姐やに背負われていたということ。
問二 A「まぼろしか」とはどういうことを言っているのですか。わかりやすく説明しなさい。
(解答例)子どものころの初夏、桑の実を摘んだ思い出があるが、自分のことだったのか、聞いた話を自分のことと思いこんでいるのか、はっきり思い出せない。
(雑感)
筑波大附属駒場中の05年度入試問題「国語」は、文章量、内容とも、完全にやさしくなっているように感じる。なぜか? ゆとり教育バッシングを後押しするつもりはないが、いわゆる「国語力の低下」もその要因の一つだろう。小学生の基礎学力、特に文字・文章からイメージするといった力や根本的なものが低下しているという感触は、現場で国語を教えていられる先生方はみなお持ちのはずだ。では、関東最難関とされるこの国立校ではどうなのか。昨年11月末に行われた教育研究会に参加して感じたのは、中学生の国語力(おもに論理的に考える、知識があるなど)以前に、基本的なコミュニケーション能力、文章把握力が低下しているということだ。また、中学高学年であっても、たしかに個別的な「勉強」はできそうだが、ディスカッションが不得意であるなど、グループワークの能力が育ちきっていないよう見える。一因として、中学受験時に理解を急がされるあまりに、設問以外のことがらに興味を持たない、その延長として「無駄なことを考えない」気持ちが生まれていることが考えられる。初等教育の段階で「点数にならない勉強は勉強ではない」という基本思考が形成されてしまっては、ゼネラリストとしての「学習力」の習得や、学校が本来持っているグループダイナミクスを生かした学問的な発展がなされ得ないのは、自明だ。また、初等教育できちんと習得すべき「書く」「聞く」姿勢ができていないことが考えられる。ただ、これは、塾の勉強が要因というより、小学校や家庭での「言語生活レベル」に関わってくるだろう。これらの「問題点」をクリアしているかどうかを試す要素が設問として凝縮されたものが、本年の国語の大問「三」であるような気がしてならない。ちなみに、問一(1)の「硬筆書写」は昨年の学校説明会で発表されていたことだ。
この点に関して、昨年の学校説明会のレポート(アクセスレポート04年12月5日)を抜粋しておこう。
「望ましい生徒を選抜するために、4科+内申書の判定に工夫ができないかを検討している。物事にキチンと取り組む姿勢が見られないか。たとえば、国語に硬筆の書写を入れて、キチンと字が書けるかを見るとか。多くの家庭は早くから塾通いをさせ、合格の目標にだけ向けて勉強しなさいと言っている。それ以外のことは保護者がフォローする形になっている。ところが子ども達は筑駒入学後に新しいことに向き合うことになる。たとえば、中学入試の国語の問題には傍線が引いてあって、傍線について答えなさいとなっている。しかし国語において文章を読むと言うことは文章全体を読むこと。文章を読んで質問のある人と言っても質問が出てこない。こちらから質問をしても試験問題と違う質問だから答えられない(例えば、夏は少年にとって飛躍の季節である。とはどういうことを言っているのか)。なぜそういう表現なのか疑問を持つことをしない。入学したら次は東大に向けて受験勉強しなさいとなると、ずっと傍線に答える勉強になってしまう。入学したら、受験のことはひとまずおいて、新しい親子の関係を作って欲しい。」