NO.150
2004年 10月25日
アクセス教育情報センター
目次
学校情報 |
公開模試情報 | 教育情報 | 入試情報 | その他 |
駒場東邦 | 首都圏模試10月 | 九段高校を移譲 | 進学塾の歴史的曲がり角 |
学校情報
駒場東邦 学校説明会報告書(04年10月16日)
台風襲来のため行けなかった10月9日の参加はがきを持参し、翌週の10月16日の午前の部の説明会に参加。予約外の訪問となったので、別室に案内され、しばし待機。そこには同様の事情からか、約40名ほどの保護者と、土曜日ということで、数名の児童の姿も。定刻になり、会場へ案内していただく。ほぼ満席で、補助席が準備されている。最後列に陣取り、場内のようすをながめながら、お話を伺う。以下、説明会の概要を記す。
1)工藤校長挨拶
1 じつは付属校である
意外と知られていないのが、本校は東邦大学の付属の学校であるということ。東邦大学は大森に医学部、千葉・習志野に医学部と薬学部を持つ大学。よって、千葉の東邦大東邦とは、ともに大学の付属校と立場を同じくしているが、独立した存在であるため、(人事異動等の)教員間の交流はない。
2 創立以来の中高6ヵ年一貫教育
1957年(昭和32年)の創立当初からの一貫教育校であり、都立日比谷高校の校長を務めた菊地龍道先生が創設を任された際に、「理想とする学校を作りたい」という意志のもと二つの建学理念を抱かれた。
一つめは、中高一貫教育であること。6年間の時間的なゆとりで、大学における高等教育の前段階の基礎をきちんと学ばせたい。二つめは、将来、指導者として青年たちが世界へと出て行くとき、専門での指導者になれる基礎を学ばせ育てたいということ。これらの理念をもとに、しっかりとした基礎を身につけ、高等教育へ向かい、社会へ出立するという、現在の駒場東邦へ至っているが、設立当初は6ヵ年の学校のあり方が理解されず、苦労したとのこと。
3 なぜ、中高一貫か?
まず、中学から高校へ至る6年間は、身体的にも成長するが、精神的にも大きな成長を遂げる時期であり、ゆとりをもって人生の基礎を育む必要がある。
進学校ではあるが、単なる「詰め込み・先取り」ではない。中高のカリキュラムの組み替えの工夫によって中高の教育課程は高校2年までに終わるようにしてある。学習の場は少人数が効果的な場合もある。今年から1クラス40名体制となっているが、たとえば中学の入門期の英語は1クラスを分割して20名で授業を行う。理科は実験の授業ではやはりクラスを半分に分割し、別々の実験室で授業を行う。教室・実験室・教員が倍必要になる計算になるが、創立時からその体制をとっている。
また、机に向かっての活動だけが学校なのではない。学校で過ごす時間は一日の3分の1であり、その意味では「生活の場」である。この点では、ホームルームクラスが少人数になることに賛成できない。教室は精神的な広がりの場であり、仲間同士で切磋琢磨することが他者との差異を認め、自己認識に至る。同時に他者を知ることになる。また、円滑に人間関係を結ぶためにはどのようにするかも学ぶことになる。そのためには、ある程度の大人数にもまれる必要がある。ホームルーム、クラブ活動、学校行事の位置づけがどれほど大切なことか。
4 集団の中で自分を知る
クラブ活動では、まず先輩との付き合いから、自分を知ることになる。さらに上級学年になり、指導的立場から低学年の生徒を俯瞰する経験を持つ。指導者となる人物は、相手の気持ちがわからなければならない。体育祭など、学年の枠を越えた共同作業や後輩への種目指導を通して、気遣いや立場、気持ちのありかたを知るようだ。また、行事を成し終えたときの達成感、充実感を通して、自分のさまざまな可能性を見出す行事という意味合いもある。学習にしても生活・行事を通して、それぞれの生徒が得意分野(自分の特色)を持ち、それらを互いに認め合う。
卒業生の姿を見て、それを実感することが多々ある。6期の卒業生の同窓会で、ある卒業生が、「(駒東の)学生時代は洋弓に没頭し、勉学をおろそかにしていた」と当時をふり返っていた。しかしながら、「それをまわりが認めてくれたことこそ、人生の多くの部分を洋弓とともに過ごすことができたのだ」とも語っていた。彼は、今期オリンピックでアーチェリーの選手の世話役を務めた人物である。
2) 佐藤中学部教頭
1 中高に境目なし
中高ともに教職員は一体で、完全に中高一貫の体制で運営している。ちなみに、高校教頭が中1指導も行うし、中学教頭である自分も高校生の授業を受け持っている。部活動は大変盛んで、学校側も大切にしている。中学部では、先輩生徒の指導のもと、世田谷区や支部での総合優勝を果たす部などもある。
2 分割授業
分割授業は40人を20人の二つのクラスに分けるが、これは出席番号順。
中学1・2年の英語、理科実験、技術などが分割授業になる。実験教室は9教室あり、技術の分割授業では、ものつくりをする班とコンピュータにふれる班に分かれる。また、クラス授業は、国語でA(読解)とB(表現)、数学でA(代数)とB(図形)、社会で地歴と公民、と細分化される。武道は柔道・剣道を半期交代で実施。
中学2年からは、武道(柔・剣道)の授業で分割形態をとり、武道場の広いスペースを我が物顔でつかえる。
中3から高校1年までの数学は、カリキュラム過渡期の時期でもあり、家庭学習の習慣の有無などの「差」でつまづきを生じやすい時期でもある。中学3年までの内容を中学2年までに修了させるため、高校課程に入る前にフォローアップの必要性が生まれる。よって、この時期の数学は習熟度別クラスで、1クラスを2分割、1組(成績上位者)、2組(成績不振者)制とし、定期試験での入れ替え制を敷いている。2組は10数人の少人数制。中だるみのフォローを行っている。
3 自由なカリキュラム編成
国語は通常の読解の授業に加え、記述による表現指導を週3回行っている。また、中学2年から古典の授業を行う。テキストは本校編集の「古典入門」。中3から現代文は高校分野に入り、漢文も「古典入門」を使用。社会は「地歴」という地理歴史の壁を取り去った科目を特設し、公民分野も早い時期から取り組ませる。社会のあり方を早い時期に理解させることが狙い。高校1年からの世界史は必修。日本史と地理(高2からは日本史・地理・政経・総合社会)から1科目必修選択。総合社会は本校の特設科目。理科は高校1年次には物理T・化学T・生物Tが必修。高校2年でこの3科目のうち、2科目が必修。理系希望者はUもコース設定をして学習する。
4 文理に関わらず、総合的な教養を
文系であっても理科2科目、理系であっても社会2科目はそれぞれ必修。専門を学びはじめた際に、本当に必要なのは総合的な教養という名のバックボーンである。大学入試全体のレベルは下がっているが、本来生徒たちが入りたい大学の入試レベルは下がっていない。「ゆとり教育」のあおりで、小学校の課程、中学の課程と割愛や後送りが発生し、そのぶん高校課程で学習することが増えている。できるだけ早く中学課程を終わらせ、高校課程をゆとりを持って学習させる。
理系進学者は物理・化学を履修するものが多いが、選択肢として理工学部だけでなく、医学部も視点に入れるなら生物をも学習する必要がある。文系進学者も同様で、コンピュータが発達した現在、理系学生も文系教科をきちんと学習する必要があるし、文系学生も理系の勉強をきちんとするべきだ。
5 新しい英語教材
英語は平成17年度からサイドリーダーを廃止、テキストとして「トレジャー」を導入。「駒東はなぜプログレスを使わないのか」と言われて久しいが、「トレジャー」は英語科で十分検討し、中高一貫用のテキストとして活用度の高いものとして採用した。
6 進路指導と講習
外部模試は中学3年生から。通塾・予備校不要が駒東の基本方針。全員履修として行う試験は、定期試験、校内模擬試験に加えて、外部の模試を使用。通常、月一度程度の頻度で試験が行われる計算になる。
価値観の多様化や大学の大衆化で、高校生の大学進学へのモチベーションづくりに工夫がいる。高校生の段階で生き方の提示をふくめ、考えさせる機会を作っている。
補習はなし。ただし、成績不振者に関しては夏期講習会でフォローアップさせる。
(資料より抜粋)
中1 夏期講習(指名制・無料)
不振者の多い科目(5日間)水泳講習(3日間) 7月に実施
中2 夏期講習(指名制・無料)
不振者の多い科目(5日間)水泳講習(3日間) 7月に実施
中3 夏期講習(指名制・無料)と(希望者・有料)の2コース
7月にT期5日間 水泳講習(指名・3日間)
高1 夏期講習(希望者・有料)
7月にT期5日間で2期(主に国語・数学・英語)
高2 夏期講習(希望者・有料)
7月にT期5日間で2期(主に国語・数学・理科・英語)
高3 夏期講習(希望者・有料)
7月にT期5日間で2期(主に国語・社会・数学・理科・英語)
7 学校行事(スライド上映)
(報告者注: 途中、体育祭のスライドの中で、茶髪や金髪の少年たちが映る。進行されてる教頭先生は冗談交じりに「ヤクザの集団みたいだ」と評しつつ、茶髪は禁止であることを伝える。ただ、強制的に指導するのではなく、ひたすら我慢強く話し続ける指導をするとのこと。「無理をして染めているよう見える子」や「単なる『良い子』ではないことを表明する思春期のサイン」があることを述べ、性格や心理に即して指導していくことを語られた。報告者は最後列に座って会場の反応をながめていたが、この指導表明に対し、好意的な受け取り方をした保護者も少なからず見受けられた。)
8 入試の変更点
各教科の制限時間を10分間延長する。そのため、従来行われていた体育館での待機がなくなり、直接教室へ入ることになる。
ここ数年、合格最低点が下がり続けてい。駒東の入試の特徴は、記述。各教科とも、知識の背景を考えてもらいたい狙いがある。表面的な書き方ではなく、設問に応じたきちんとした形での内容を求める。時間不足のため、熟考ならず、不明瞭な解答や空らんも多いことから、教科から時間延長の提案があった。算数などは、解答に至るまでの考え方を記述する部分がある。立式もふくめ、すべてが思考過程であるわけで、誤答であっても途中点を与える場合がある。
(資料より抜粋)
過去3年間の中学入試資料
04年度 03年度 02年度
志願者数 752 728 645
受験者数 723 709 615
合格者数 265 274 275
合格最低点 222 230 243
平均点
国語 68.8 61.0 70.0
(77.5) (66.4) (76.0)
社会 33.4 36.7 52.9
(38.7) (42.6) (57.6)
算数 63.5 62.6 61.3
(74.4) (81.5) (76.5)
理科 44.4 56.9 53.7
(48.6) (60.8) (57.4)
合計 210.1 217.2 237.8
(239.2) (251.2) (267.6)
(3) 報告者雑感
今回の説明会で気になった点が二つ。
一つめは、リーダー(校長)を支える教頭先生の「校長さん」という一言。「正しい敬語が…」という向きには、保護者会で「さんづけ」とは、と眉をひそめられる向きもあると思うが、ここで不意に口をついて出たのが「校長先生」ではなく、「校長さん」であったことに、職員室という現場のやわらかい空気を感じた。実際は、どうなのだろう。「リーダーとなる」「医学部志望者が」と、志望の動機づけになるであろうキーワードが演者の先生のことばの中には多々ふくまれていたが、生徒側から、そのモデルになるのはやはり先生方であるはずだ。御輿を担ぐ大人たちの姿に、子供は自分の役割や位置づけを投影すると思うのだが、もし、説明会のときに感じた「やわらかさ」が気のせいでなければ、子どもたちは概念ではなく、空気として校風を受け入れると思う。
二つめは、理系学校での文系教科、とくに英語指導の改変について。
中高一貫校の進学校で一般的に採用されているの「プログレス」よりも良いということで採用になった「トレジャー」は、おそらく増進会(Z会)出版のトレジャーのことだろう。中高一貫校向けにつくられたこの教材は、中学3年間の課程で英文法の基礎を一通り完結、グレード5にあたる高校2年で大学受験対策課程に応用できる力を養成するための専用教材。中学1・2年の課程では、会話と対話形式の記述で新課程の検定教科書の全てをしっかりと含みこみ、「聞く・話す・読む・書く」の4技能と異文化理解を中心に学習をさせる。さらに、中学3年の課程では、一般に高1課程で開始する大学受験レベルの英文を読むための準備としての基礎・基本を徹底して養成。履修語彙数は、中学時期で指導要領の約3倍、高2課程終了時までに大学入試必須語4,000語以上を完全カバーするというもの。
中学3年までで話法や仮定法までをふくめて、コンストラクティブに文法を習得するというのはプログレスも同じコンセプトであるし、そもそもプログレス自体もロバート・M・フリン先生が六甲(神戸)や泰星(福岡)で教鞭を執られた際に使用したプリント教材がその出自であるから、「どちらを使う学校がいいのか」などとその優劣を論ずるのは不毛だろう。問題はあくまで、運用のされ方と、教化技術なわけだから。プログレスはブック3まで、高校は検定教科書を使用という学校も多いが、そのあたりの実情を勘案した教材としてならば、現場も使いやすいのかもしれない。また、理系シフトした学校である駒東にとって、医学部の試験も多様化しているだろうし、高校段階で読ませたい英文というのも、一般的な科学分野にとどまらないのかもしれない。そのあたりは、実際に新教科書の動き始める来年、次回の取材でということで。
(報告 A.O)
http://www.komabatoho-jh.ed.jp/
恵泉女学園 一人のために −「教育基本法」の教育原理 −
校長 安積 力也(校内誌 恵泉より)
「先生、今日のお話、良かったよ!」朝の礼拝を担当した日の昼休み、廊下ですれ違った中学1年生に突然そう言われた。「あ、そうか。何か伝わったか。」「うん、伝わった!」
詩編23篇1節以下(主は我が牧者、われ乏しきことあらじ)を引用して「どんなに疲れてしまっても、心の奥に、魂を生き返らせてもらえる緑の牧場がある。皆は恵泉で、そんな心の中の立ち返り所を探そうとしているか?」と問うた。何が伝わったかは分からない。中学生には難しすぎる問いだったかもしれない。でも、そこから何事か大切なものを感じ取った中学生が確かに1人、ここにいた。その日1日、私の心は嬉しかった。
教師の喜びは、単純だ。「一人の生徒」と一瞬でも心が触れ合えた時の嬉しさ。「校長」という、生徒からひどく遠い場に据えられて、益々その思いは強い。「先生とお話をしたい。」そう言って校長室を訪ねてくる恵泉生がいる。そんな日は、一人の若い魂の真実に触れた充実で心が満ちる。教育の業の本質は、一対一の関係の中にあることを、改めて強く想う。
教育には「教育原理」と呼びうるものがある。教育が「人間教育」として成り立つための必須の原則。一人ひとりの生徒を真の自己に目覚めさせ人間として自立させていく教育の営みには、他の如何なるものによってもねじ曲げられてはならない教育固有の条理がある。わが国の教育基本法は、それを「個人の尊厳を重んじ」ること(前文)と明示し、従って教育は何よりもまず「人格の完成」をめざす(第1条「教育の目的」)と明記している。
「人格」とは、優れて「個」である。この基本法を立案した先人達(この中に河井道先生がいる!)は、先の戦争の悲惨を通して、通説に自覚したのだ。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」(「日本国憲法」前文)平和に徹した国家を形成するためには、「教育の力」に拠るしかないことを。そしてその教育における変えてはならない「教育原理」は、「個人の尊厳を重んじる」という一点であることを。ここには「一人」という人間の尊厳を他の如何なるものよりも大切にする価値意識が、はっきりと表明されている。「この一人の生徒のために」集中する精神こ
そ、いかなる状況下にあっても教育を教育たらしめる本源である。
今、教育の原理とは異なる原理が、この国の教育を支配しつつある。個人の尊厳よりも国家の尊厳を優位にさせようとする国家主義の原理。そして、自由競争と効率性追求を本質とする市場原理。これらは政治や経済を成り立たせるための原理の1つではあっても、教育を生かす根本原理ではない。だから、どんなに「教育改革」の名によって為されようと、それは、結局は教育の命を損ない、この国の教育を、教育本来の目的とは異なる目的に隷属させてしまうことになると思われてならない。
恵泉は「教育の」原理に殉じる学校でありたい。それは何よりも「個としての生徒」を大切にする教育である。あらゆる差異を超えて「一個の人間」の尊厳を感受し、愛し、国境をこえた友情を培える。「個」。そのような「個」は、「個」として尊重されて、初めて誕生する。
ある日の放送礼拝。生徒の感話を聴いた教師達の間に感嘆と喜びの声があがった。「よくここまで成長したなあ!」一人の生徒の中に見出しえた小さな確かな成長の跡が、教師達みんなの深い喜びとなる。私は、99匹を置いて迷える1匹の小羊を見出した時に「天に大きな喜びがある」と言われたイエス様の言葉を想った。全てを効率性と単一価値の下に括ろうとする巨大な潮流の只中にあっても、「一人」のために働く教師達がいる限り、教育本来の原理は消えない。
http://www.keisen.ac.jp/high/index.htm
東京女子学園 高3生がTOEICで750点
(FAXニュース10月号より)
大学の新卒の平均が420点と言われている英語検定試験TOEICに、本校の高校3年生が8月に750点を取得しました。450点で日常の英会話が可能。500点で海外出張など仕事で英語を使用する能力があるとされる試験です。上智大学の外国語学部の推薦基準が700点です。昨年度から高校生を対象にTOEIC講座を実施していますが、今後が楽しみです。
=FAXニュースに関し、学校に以下のことを伺ってみました。=
(質問)
WHAT’S NEW?10月号で、TOEIC750点の記事が載っていましたが、どういう生徒なのか、どうやってその力をつけたのか、東京女子学園の英語の授業がどう関わっているのか、他の生徒の結果はどうかを教えていただけますか。
(回答 辰巳教頭先生)
TOEICで750点を取った生徒は、学年では成績が4〜5番くらいの生徒です。英語は得意ですが、別に帰国子女とか、留学経験があるとかいうわけではありません。中学受験のときも、塾に通っていなかったようです。
本校のTOEIC講座は昨年度開始され、LEVEL1から、半年ごとに、レベル・アップしてLEVEL4まで、高校1年生を対象に、2年間でTOEIC500点を目指すコースです。高2終了後、その能力を伸ばして、受験勉強に取り組むことになります。また、海外の大学に留学を希望する生徒が出た場合は、引き続きTOEFLの対策に入ることになります。
ただ、昨年は開始年でしたので、高校2年生もLEVEL1からの受講を可能にしました。750点を取った生徒は、昨年度高2でしたので、LEVEL1から受講し、今年度は受験勉強に取り組むということで、TOEIC講座は受講していません。
彼女は、本校の6年間のワールドスタディーや、高校1年生の夏に参加したアメリカへの海外教育研修(3週間)を通して、将来英語を使う仕事につきたい、という希望が強くなりました。一時は留学を希望していましたが、今は国内の大学をねらっています。目標を決めると、そのためならどんな努力も惜しまない生徒です。本当に睡眠時間以外は、可能なかぎりの時間を勉強に当てていると思われます。TOEICの勉強もじつに熱心に取り組んでいました。でも、いつも誰かが(先生が)、ちゃんと見ていてあげて、ほめたり、感心したり、励ましたりしていないと、だめな生徒なのです。
本校のTOEIC講座の計画は、1年目が終わったところで、TOEIC−IP(模擬試験)を受け、2年たったところで、本当のTOEICの試験をうけます。ですから、受講生は、まだTOEICのIPしか受けていません。
この生徒は、個人的に8月に試験を受けました。TOEIC−IPは、高校1年生が3月にうけて、400点から、490点くらいでした。来年の3月にどのくらい伸びるかが、問題です。生徒の中には、来年の1月から3月にオーストラリア3ヶ月留学に参加する生徒もいますので、帰国後、何点とれるかが楽しみです。(文責 アクセス)
学校説明会
11月 9日(火) 10:00〜
11月27日(土) 10:00〜 体験入学あり
12月11日(土) 10:00〜 体験入学あり
http://www.tokyo-joshi.ac.jp/
立教女学院 クリスマス礼拝を公開することに
今年は行わない予定だったが、志願者からの要望が多く、急遽実施することに。
日時 12月18日(土) 11:00〜
対象 小学校5・6年生
人数 350名(申込先着順)
申込 往復葉書にて
児童氏名、ふりがな、学年、保護者氏名、住所、電話番号、参加人数(1組3名まで)を記入
12月6日消印より受付
〒168−8616 杉並区久我山4−29−60
立教女学院中学校 学務課入試係
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/jogakuin/
片山学園中学校(仮称) 説明会報告(04年10月7日)
1.ビデオによる学校説明
富山県初の中高一貫校
中高一貫教育によって発揮される特長
@ 中高の切れ目や重複が避けられ効率的な教育を行うことができる。
A 6年間生徒を継続的に把握できるため、個性や適正に応じたきめ細かい指導の徹底が図れる。
B 高校入試の影響がなく、ゆとりある学校生活を送ることができ、主体的な学習への取り組みが期待できる。
C 部活動を途切れることなく継続することが可能になる。
D 6学年にわたる生徒の交流によって社会性の陶冶の効果が期待できる。
片山学園マニフェスト
@ 一人ひとりの人間性を育む「全人教育」を実践。
A 国公立中学の約3倍。「英・数・理 週30限授業」を実践。
B 定員80名中、「東大20名、医学部医学科20名合格」を目指す。
C 「文武両道」を実践。
学校の施設・環境
2.片山浄見理事長挨拶・説明
・ 一人の自閉症の子供との出会いがきっかけで塾を開いたが、塾での指導には限界があるため学校を創ろうと考え15年前から準備に取りかかった。
・片山学園は「塾のこころ」で創る学校で先生は全員塾の先生(育英センター)。
・学校の授業の他、寮で夜間特別授業がありこれも学校の先生が教え自習時間にも随時質問可能な態勢を整える。通学生は育英センターで片山学園生徒対象の特別授業を受ける。
・経済人、芸術家、医師、弁護士、研究者、スポーツ選手など、それぞれの分野の最前線で活躍している人たちによる講座を設け自分たちが育ち生きていく世界に対して夢と実感をもたせる。
・寮は寮監が家族と一緒に寮で生活するため家族的な暖かさを感じながら生活でき、生徒と先生、あるいは学年の違う生徒どうしが互いに協力関係を築き、自然に協調性や社会性を身につけていくことができる。部屋は個室で冷暖房完備10畳の広さがある。部屋にピアノをおくことも可能。
3.入試について
推薦入試 04年12月26日 富山会場
試験科目 作文・面接
12月12日に育英センターでおこなう資格試験(中学入試プレテスト)を事前に受ける。
募集人員の2〜3%
国内入試 05年1月8日 札幌・東京・名古屋・大阪・福岡会場
試験科目 4科目
一般入試(後期)と合わせて募集人員の約30%
一般入試 05年1月16日
(前期) 試験科目 4科目・作文・面接(集団)
募集人員の約70%
(後期) 05年2月6日
試験科目 4科目・作文・面接(集団)
国内入試と合わせて募集人員の30%
=英・数・理に週30時間も授業時間を割いて全人教育ができるのだろうか。中高一貫としての特徴も一般的な特徴を述べているだけ。=
http://www.katayamagakuen.jp/
公開模試情報
首都圏模試10月 統一合判(10月11日)
前年比4.7%の増加。男子の5.5%の増加に対して、女子は4.0%の増加。
04年 03年 02年 01年 00年
男子 4科 5485 5062 4660 4328 3795
2科 997 1082 1112 1131 1228
女子 4科 4948 4433 3730 2946 2376
2科 2419 2649 2872 2917 3474
合計 13849 13226 12374 11322 10873
三模試における偏差値の違い
1 中学入試で学校の難易度を知る目安として偏差値があり、首都圏の中学入試では大手三模試(首都圏模試、日能研公開模試、四谷大塚)がそれぞれに学校別の偏差値を設定し偏差値一覧表を作成しています。それぞれの模試を受けた受験生は、そこで算定された自分の偏差値(個人偏差値)と、設定された志望校の偏差値(学校偏差値)とを比較しながら合否の可能性を判断することになります。
しかし、三模試により設定された学校偏差値の数値が違ったり、模試を受験した結果として出てくる個人偏差値の数値が三模試によって異なるので、三模試のいずれの数値を信用したらよいのか迷う受験生も多いようです。
なぜ、それぞれの模試(テスト会)によって個人偏差値や、学校偏差値が違うのでしょうか。
2 模試における偏差値とは、ある模試を受けた集団の中で、平均を50として、自分がどの位置にいるかを示す数値です。模試を受験する母集団が違えば、同じ問題を行ったとしても、平均点や得点分布が違うので当然算出される数値は異なってきます。ある受験生が首都圏模試と日能研公開模試(または四谷大塚)を受けた場合、その時の問題の出来不出来により上下はありますが、母集団の違いから首都圏模試の方が平均すると5〜6ポイント高い数値が出てきます。日能研模試と四谷大塚は母集団の質がほぼ同じとして数値を見ることができると思います。ただ、それぞれの模試の出題傾向が自分に合うかどうかによってよっても、出てくる数値はまた異なってきます。
ある模試を受けた結果出てきた偏差値はたんにその時の算定結果でしかありません。同じテスト会の模試を受けても、良いときと悪いときの数値が10ポイント近く違うということもよくあることです。
3 中学入試の偏差値(学校偏差値)には、結果偏差値と予想偏差値があり、それぞれに80%−50%−20%のラインが設定されています。(日能研模試はR4−R3−R2と表示しています)
結果偏差値は各テスト会がその年の入試結果から、どのくらいの偏差値の受験生がどの程度の割合で合格していたかをもとに設定していきます。あるテスト会でA校の80%偏差値が60、50%偏差値が56と設定されていたとすると、そのテスト会の模試で偏差値60を取っていた受験生は10人中8人の割合で、偏差値56を取っていた受験生は10人中5人の割合で合格していたということになります。
したがって、ある学校の正確な判定をするためにはその学校の受験生の件数が多いこと(特に不合格者の件数)と、受験生の偏差値(個人偏差値)が正確なものであることが必要です。各テスト会も自分のところの模試を受けた受験生の合否を追跡して各学校の結果偏差値を決めるわけですが、それぞれのテスト会が収集した各学校の受験生件数には当然差があります。受験生の件数が少ないときにそのラインをどう読むかによって80%−50%−20%の数値は異なってきます。
また、受験生の偏差値も、そのテスト会の模試を何回か受験した平均偏差値の受験生もいれば1回しか受験したことのない受験生の偏差値も一緒になっています。そのテスト会の模試を1回しか受験せず、たまたまよい偏差値を出した受験生が入試では不合格になり、たまたま低い偏差値だった受験生が入試では合格するということもあります。
そうした形で設定される結果偏差値ですのでその数値はあくまでも大まかな目安と考えておけばよいと思います。
予想偏差値は結果偏差値をもとに、入試要項の変更(入試日程の変更、入試回数の増減、募集人数の増減、入試科目の変更、他校の入試要項の変更等)や模試の受験生の志望動向、その学校の志望者の層を加味して設定していきます。予想偏差値は結果偏差値以上に担当者の読み(主観)が反映されてきますので、各テスト会によってより差がつきやすいと言えます。
4 では、具体的に各模試の偏差値(学校偏差値)の違いを見ていきましょう。
04年入試の結果偏差値(80%)において、日能研模試と四谷大塚との間で2ポイント以上差のある学校の一覧を作ってみました(資料1参照)。男子はのべ147校(回)の入試のうち57校(回)で、女子はのべ160校(回)の入試のうち72校(回)で2ポイント以上の差が見られました。学校によっては80%偏差で最大6ポイントの差があります。中には80%偏差は日能研模試の方が高く、50%偏差は四谷大塚の方が高いという学校もあります。
総体的に言うと、男子は日能研偏差値の方が高く設定されていて、女子は四谷大塚偏差値の方が高く設定されている傾向にあります。多分、四谷大塚の模試は男女別問題になっていて偏差値の算出が男女別になっているため、男女一緒にして偏差値を算出している日能研と比べ、男子は偏差値の高い数字が出ずらく、女子は逆に出やすいということが影響していると思われます。
また、複数回入試を行う学校の、後の入試の方で差のある学校が多くなっているのは、集まったデーター数の差と、少ないデーターの中でどう読むかの違いによるものだと思います。
5 しかし、違い以上に読みが間違っているのではと思われる学校もあります。
各模試の資料から、結果偏差値をもとに何校かゾーン別の合格者数・不合格者数の一覧を作ってみました(資料2参照)。
浅野中を例に表の見方を説明します。首都圏模試の結果偏差値では80%偏差値は67、50%偏差値は63でした。首都圏模試の偏差67以上(80%偏差以上)の受験生で浅野中に合格した人数は71名、不合格だった人数は10名でした。偏差63以上67未満(50%偏差以上)の受験生で合格した人数は57名、不合格だった人数は53名でした。偏差63未満(50%偏差未満)で合格した人数は41名、不合格だった人数は219名でした。同じように他の模試や、他の学校の数字を見てください。
80%偏差以上の合格率は80%を超え、50%偏差以上の合格率は50%を超えるのが普通ですが、そうなっていない学校があります。麻布中における日能研模試の50%偏差は61ですが、日能研模試の50%以上のゾーンの合格者は52名、不合格者は78名となっています。そうすると、50%偏差の61というのはややあまい数値ではなかったかと思います。
首都圏模試の筑波大駒場の50%偏差、同じく日能研模試の筑波大駒場の50%偏差、四谷大塚の立教池袋の80%偏差、50%偏差などもあまいのではと感じます。日能研の浦和明の星の50%偏差、白百合の50%偏差、豊島岡女子1の80%偏差、50%偏差、もあまいと思います。
6 実際の受験生の偏差値別合否分布を栄光学園と浦和明の星を例に見てみましょう(資料3参照)。
首都圏模試は栄光学園の80%偏差を71、50%偏差を68に設定しています。80%偏差については偏差71のところで4人受験して3人合格ですから75%の合格率ですが、偏差72のところの3人受験して2人合格をどう見るかにより、72に設定するか71に設定するかという違いが出てくると思います。同じく、日能研模試の80%偏差は66ですが、偏差68で12人中7人の合格、偏差67で16人中10人の合格ですから68が妥当なところではないかと思います。四谷大塚も80%偏差の設定は64になっていますが、65の方が妥当に思います。50%偏差も日能研模試は63、四谷大塚も62のほうがあっているように見えます。
浦和明の星に関しては、日能研模試の数値は80%偏差も50%偏差も低すぎると思います。80%偏差は63、50%偏差は59が妥当ではないでしょうか。浦和明け星に関して日能研模試は2年続けて大きく読み間違っていると思います。
7 各模試の個人偏差値や学校偏差値の数値が異なる理由と実態を述べてきました。確かに偏差値は一つの目安にはなりますが、それほどたしかな基準ではありません。
偏差値はあくまでも合否の可能性を判断する目安であって、絶対的なものではありません。三模試の設定している偏差値に届いていなくても志望校に合格している受験生はたくさんいるわけです。
模試を受けたときに大事なのは偏差値がいくつかではなく、どの問題ができて、どの問題ができなかったのかです。偏差値の数字に一喜一憂するのではなく、答案を見直すことが必要です。
教育情報
九段高校を移譲 千代田区に、都教委
(毎日新聞 10月15日)
都教育委員会は14日、千代田区が06年4月開校を目指している都内初の区立中高一貫校の設置を認可した。校名は「千代田区立九段中等教育学校」となる見通しで、都は都立九段高を区に委譲し、区が隣接地に校舎を増設する。12月の定例区議会に関連議案が提案される見込み。
同校は総定員960人で、1学年160人(4クラス)。都内全域を通学区域とし、半分は区民以外の枠とする。04、05年度に現在の九段中に入学した生徒は、06年度の開校時に、例外的に中等教育学校の3年、2年に編入できる。同区は02年度に隣接の旧国有地を取得済みで、6階建て校舎を増設するほか、現在の九段高校の校舎も利用する。
審査では、体育館を含む運動場の面積(6228平方メートル)が設置基準(8400平方メートル以上)を満たしていなかったが、九段高が「教育上支障なく使用している」ことを理由に、問題ないと判断された。
この日の都教委定例会で教育委員の一人が、九段高の同窓生が展開していた委譲反対運動に関して質問したのに対し、山際成一・学務部長は「現在では良好な関係になっている」と答えた。
テクニカルハイスクール 都教委が工業高校に活性化策
(毎日新聞 10月15日)
中学校卒業生の普通科高校志向が高まる中、工業高校の活性化を図ろうと、都教育委員会は14日、蔵前工業、府中工業、葛西工業の3校を「リーディングテクニカルハイスクール」に指定した。3校を▽理工系大学への進学を重視するスペシャリスト型▽技術資格取得を目指すテクニカル型▽職人育成を掲げるマイスター型に分け、それぞれのコンセプトに即したカリキュラムを編成するという。
スペシャリスト型の蔵前工業では、大学進学を視野に一日7時間授業や受験指導専門家による授業、土曜講座を実施するほか、英語や数学の特別講座も開講する。芝浦工業大、東京電機大、東京理科大と連携し、推薦入学の拡大も目指す。
テクニカル型の府中工業では、生徒全員が初級システムアドミニストレーターと第2種電気工事士の資格取得を目標とし、生徒の意欲を引き出す計画。技能審査で単位認定し、外部の専門家を講師として招くなど、特別講座も開く。
マイスター型の葛西工業では、地元の工場や事業所でインターンシップや技能講習を行うことで、勤労観や技術者としての自覚を高める。生徒が小中学校に出向く出前授業も予定している。
都教育庁学務部は「3校を先導役にして、工業高校全体の活性化につなげたい」と話している。
日本語教育特区 世田谷区が申請
(毎日新聞 10月15日)
日本語で深く考え、表現できる子供を育てたいと、世田谷区は15日、区内の全小中学校に「日本語」科目を新設するための日本語教育特区を内閣府に申請する。英語特区を申請した自治体はあるが、日本語は全国初。06年度から、日本語を週に小学校は1時間、中学校は2時間学ぶ。国語の授業数は変えない。「学力の基盤は、日本語の力」と言い切る発案者の若井田正文教育長(53)に話を聞いた。
−−日本語特区の狙いは何か。
「私自身、高校で数学を教えていて、17、18年前ごろから生徒の学力低下を感じていた。欠けているのは国語の力だ。数学の問題は条件を一つでも見落とすと解けない。条件を読み取る力は国語力。これが低下した」
−−問題は学力低下だけか。
「もっと危機的で、とくに小中学生は自分を表現する豊富な言葉を持っていないため、お互いや大人とのコミュニケーションが苦手だ。自分の感情を相手に伝えられないと、人間関係はうまくいかない」
−−具体的に何を学ばせるのか。
「特に中学校で特色を持たせ、『哲学』『表現』『日本文化』を学ぶ。哲学は一つのテーマをじっくり考えさせる。例えば『生と死』を取り上げることで、学んだり働いたりすることの意味を、生徒が考え始めるような内容にしたい。表現は自己表現力をつける。日本文化は文学や古典、芸術について自分で調べたり考えたりして、自分なりに日本という国を理解している子供に育てたい」
−−どうして英語教育重視ではないのか。
「自分に語るべき豊かなものがあり、さらに日本を理解して外国人に紹介することができるかどうかが国際社会で活躍できる条件だと思います。そのためには、まず本を読んで日本語で考えることが必要。日本語の基盤ができれば、英語はすぐ上達します」
高校生の基礎学力 公立高校で大幅低下
(朝日新聞 10月18日)
いまの教育改革について、公立高校教員の87%が「高校生の基礎学力が大幅に低下している」と感じ、82%が「最近の改革で高校間格差が広がりつつある」と考えている。そんな結果が、国立教育政策研究所の研究者の調査でわかった。改革の方向を教員たちは疑問視しているようだ。
菊地栄治総括研究官がこの3月、全国の公立高校200校を調査し、166校の教員4441人から回答を得た。校長も792人を調べ、444人が回答した。
「特色ある学校づくり」を目指した高校改革では、総合学科や単位制高校などの「多様化」路線が進められてきた。生徒の選択の幅を広げるために学区を弾力化、撤廃する自治体も増えている。03年度、「ゆとり」を目指した今の学習指導要領が高校で始まった。構造改革特区では株式会社による通信制高校が開校した。
調査で「高校生の基礎学力は大幅に低下している」に、「とても」「ややそう思う」と回答したのは教員87%、校長85%。「最近の改革によって高校間格差が広がりつつある」は教員82%、校長73%だった。
「もっと高校の教育現場の現実をふまえた教育改革にしてほしい」に「とても」「ややそう思う」と答えたのは、教員95%、校長92%だった。「教育改革のペースが速すぎてじっくりと取り組む余裕をなくしている」も教員85%、校長87%。
「株式会社が高校の設置・運営に参入するようになるとよい」は教員23%、校長22%にとどまっている。
大学の秋季入学 来年早大が参入
(朝日新聞 10月18日)
早稲田大学商学部は、来年から「2月入試、4月入学」に加え、「9月入試、9月入学」を実施する。日本で留学生や帰国生徒だけでなく、高校既卒者を対象に秋季入学が始まったのは94年。それから10年、一般向けの秋季入学を実施している大学は19にとどまっている。早大の導入は、他大学に影響を与えるのか。
商学部では95年から、半年ごとの学期制「セメスター制度」を導入している。9月に入学しても授業や単位取得に差し障りはない。さらに、成績優秀者は3年半で卒業できる。9月に入学しても、その年の4月の入学生とともに卒業することが可能だ。募集人員は50人。その分2月入試の募集を減らした。
「多くの受験生に多様な機会を与えるとともに、優秀な生徒を集めたい」。9月入試を発表した6月の記者会見で早大の堀口健治副総長は、その意義を説明した。辻正雄・商学部長も「現在のように、年に1度の試験で将来が決まってしまうことには弊害がある」。
秋季入学を関西で導入しているのは、大阪府堺市のプール学院大。キャンパスでの異文化交流を進めるため、諸外国の受験シーズンに入試を合わせる狙いがあった。98年度に始め、海外からの帰国生や留学生を含む年5人前後が秋に入学している。入試は7月で、9月下旬に数人だけの「入学式」を開く。「人数が少ないので、講義の選び方や生活の相談など、4月入学者よりもきめ細かい対応ができる。この制度で来年からはぜひ社会人学生も増やしたい」と担当職員は意気込む。
だが、利用が減っている大学もある。94年、秋季入学を日本で最初に導入した東洋大。志願者は最初の5年こそ100人を超えたが、ここ数年は十数人に落ち込んだ。深野弘美広報課長は、卒業時期がずれるので就職の不利を心配したり、少数派になることを嫌ったりする学生が少なくないとみる。ただし「早大が実施すれば、もっと広がると思う」と期待する。
高知工科大は00年入試から秋入試を始めた。募集定員は5人。年3人程度入学していたが、今年は志願者ゼロだった。3年半で卒業できる制度も採用したが、3年半で卒業したのは今まで1人で、就職のために4年半在学する学生もいるという。「高校の卒業時期が3月ということと、就職に不利という点で人が集まりにくいのでは」と入試部は分析する。
山口県の萩国際大も01年から一般向けに秋入試を実施している。しかし、留学生以外で入学した人はこれまでいない。今年はカリキュラムの関係から実施しなかった。来年は未定だという。
文部科学省によると、02年度現在、意欲や人物を重視して選ぶアドミッション・オフィス(AO)入試を除き、一般受験生向けに秋季入試を実施している大学は19大学。定員は1けたや若干名、というところが多い。定員割れしている大学も少なくない。
受験生にとっては9月入学は魅力なのだろうか。早大が第1志望だという小島詩織さん(17)は「オプションの一つとして歓迎する。1年間の浪人生活は無駄だと思う」。今年、早大商学部を受けた高山直哉さん(19)は「9月入試で受かれば入学したいけど、就職には不安」と複雑な様子だ。
代々木ゼミナール入試情報センター本部長の坂口幸世さんは「半年の浪人生活で大学を決めるのか、あと半年頑張ってもっと上を狙うのかを9月の段階で決めなくてはいけない。それに、入学も、入社も中途半端になる危機感があると思う。そう考えると、倍率がそう高くなるとは思えないが、一流ブランドの早稲田だけにふたをあけてみないと何とも言えない。早稲田で成功すれば他大学も追随すると思う」と話す。
*社会の受け入れ、変化の必要も
慶応大は来年度から、秋季入学の必要条件となるセメスター制度を全学部に広げ、カリキュラムの改訂を進める。商学部長の桜本光教授は「国際間の競争では様々な改革が必要となる。早大の努力は評価したい。そういった議論の中では、慶応でも秋季入学を導入する可能性はある」としながらも、「それには、世間の受け入れもフレキシブルになる必要がある」と話す。
法政大入試センターも「秋入学は20年ぐらい前から議論している。しかし、高校卒業の時期と、企業の入社時期が変わらないと広がらない」と話す。
東洋大を2年前の秋に卒業し、自動車部品の製造・販売の「東洋電装」に勤務する根本裕介さん(27)は「就職活動で特に不利な点はなかった」と言う。しかし、新卒で秋入社を認めてくれたのはこの会社だけだった。「自分のやりたい仕事がこの会社と一致したので決めた。もし別の会社を希望していたら半年待つ覚悟だった。多くの大学が秋季入学を実施して一般的になってくれば会社の受け入れ態勢も変わってくると思う」と話す。
その他
《連載4回》
進学塾の歴史的曲がり角 〜日能研と私の「罪と罰」〜
海風荘主人 三渕衡一 (元日能研取締役・前センター通信社代表)
V 1984年〜1992年(広報部長時代)
1 80年代の世界・日本・教育
私の日能研在職最後の7〜8年間は、世界史的には戦後世界体制が完全に崩壊し、見せかけの「平和と成長」にかわってむき出しの「戦争と大失業」が時代の基調となっていく節目の時期と重なる。これにともない、日本社会も経済・社会・政治のあらゆる面で、それまで考えられなかったような大変動が始まった。教育も例外ではない。そして中学受験も塾業界も異常なほどの激動に叩きこまれた。
世界的には何といってもソ連邦の崩壊(90年)が大きい。マスコミは「これで資本主義は心おきなくますます発展する」と主張したが、その後の事態は完全に正反対となった。帝国主義の矛盾、特に帝国主義大国同士の争闘戦が激化し「戦争と大失業」が全世界化し始めた。ソ連(スターリン主義)は結局は(1930年代以来)帝国主義の世界支配を補完的に支える安全装置にすぎなかった。その留め金が外れたのである。日能研は1989年の5月連休に北京に社員旅行に行った(私は父の死で参加できなかった)が、そこで「天安門事件」直前の中国人民の大闘争にめぐりあった。みんな帰ってきて「この目で世界史を見た」と興奮していた。日本にいては想像も出来ないような巨万の人民の決起だったらしい。
国内的には後先考えない絶望的な経済政策(何百兆円もの「不良債権」を残した)によるバブル経済のもと「世界の三悪」の1人の中曽根首相(あとの2人はレーガン大統領とサッチャー首相)らの大反動攻撃(国鉄の分割・民営化による20万人の首切り・総解体等、仕上げは昭和天皇の死去にともなう大嘗祭の強行)が吹き荒れた。
教育の世界でも、その中曽根首相による臨教審攻撃がこの期間の攻撃の主軸である。それは「ゆとりカリキュラム」の本格実施を踏まえて、一挙に「教育の自由化」の名の下に公立学校教育を破壊し、それを「日の丸・君が代」を軸とする国家主義思想教育に再編しようとする攻撃だった。ただそれは(田中角栄支配下の少数派閥の)中曽根首相と文部省・自民党文教族(森・小泉派中心)のあいだで「改革」のスピードと徹底性をめぐって重大な分裂・対立があった。それを「早く、浅く」やろうと焦る中曽根に文部官僚らは「教基法改悪には手をつけない」というワクをはめた。そして20年後の今日、「教基法改悪」が森→小泉内閣のもとで、改憲に直結する恐るべき徹底性をもって打ち出されてきた時、中曽根は真っ先に「クビ」にされている。
私立中高一貫校はこうした中で80年代前半には、臨教審によって(塾とともに)「教育の自由化」という文脈の中で賞賛され、後半は「文部省・中教審」によて「学習指導要領逸脱・受験偏重教育」とボコボコに叩かれた。しかし1976年の私学振興助成法を土台として、かつは来るべき少子化・経済不況・政治反動にそなえて各学校の内外で大胆な教育・経営改革を展開し、結局は1990年ごろまでには、私立中高一貫校は日本の中等教育の不可欠は一大勢力として定着した。このことは「中学受験ブーム」が「ベビー・ブーマー」の下の生徒たちが学校を卒業した1987年以後も一向に衰えず92年まで6年間も続いたことにあらわれている。これはもちろん「バブル経済」が92年まではじけなかったことが一因であるが、それとともに1989年の文部省の(「リクルート汚職」にまみれた)「個性化・情報化・国際化カリキュラム」が「学力低下」と「日の丸・君が代主義」を一段と強化したことと対比して、自由で知的レベルが高く生徒の人権を尊重する私立中高一貫教育の広範な確立がそれ以上に重要な要因となった。
そういう中で塾業界では日能研が「全解」カリキュラムを確立した勢いで、トップの動揺や反動を突き破って一気に四谷大塚を引きずり下ろして「ナンバーワン」にのぼりつめていく。
私の「教務部長」からの追放と「広報部長」(部員は当初は私と女性事務員の2人だけ)への就任はつまらない動機からなされた人事で、私自身不本意だったが、結果としては私はこういうすごい激動期に日能研が外から社会的に問われた矛盾や問題点の突破の最も重要な部門の最前線に立たされることになった。かくして私は日能研の「トップへの上りつめ」のために(いろいろな害悪をまき散らしながら)大奮闘した。
2 ブルーナー「教育の過程」の学習
会長の葬儀が終わるとすぐ高木新代表はお気に入りのM教務部長と友人の玉川大学の教官を引き連れて、かなり長期間アメリカに教育事情視察に出かけた。アメリカから最新の教育理論と実践を輸入し、それをテコに教務を始め社内での自己の権威を確立しようとしていることはあまりにも明白だった。私はそれに対抗するため、日本で図書館や本屋をまわって「アメリカ教育学」のにわか勉強を始めた。
一番面白かったのはJ・S・ブルーナーの「教育の過程」(1964年、訳岩波全書)だった。私はこの一冊にかかり切りとなり、細かくノートをとって長大な解説文まで書き、社内で「広報部連絡」として配布した。
この本は60年代当初にアメリカがソ連にスプートニク(長距離ミサイル)開発競争で大敗北したことにショックを受けた米政府(軍部)と財界が多くの最先端科学者を集めて「教育改革」の指針を確立しようとしたものである。その会議をリードしまとめたのが認知心理学者のブルーナー博士である。
結論から言えばこの報告書は要するに帝国主義的軍拡のための「学力向上」路線であり、のちに出た「危機に立つ国家」(和田秀樹氏らが推奨している)やブレア(イギリス)の「学力向上」もこの亜流であり、それに政治的反動を強化したものにすぎない。しかしこの報告書はソ連の「エリート教育主義」に反対して「学力向上」を「民主主義的」に、つまり大衆的に実現しようとしており、そのために主として小学校でのカリキュラムを焦点にする。そして「マルクス主義」的(実はヘーゲル主義的)な「系統学習」に対抗して、系統発生的なカリキュラムに反対し、現代科学の最先端からいわば逆算的にカリキュラムを組むよう提言した。
日本でもこれは1960年代末に輸入されて全国の小中高に「現代化カリキュラム」として強要された。文部省がそれを採用したのは「独立」後の1960年代のカリキュラムが敗戦時に米占領軍から押しつけられた「コアカリキュラム」(生活単元方式)に対抗して非常に系統主義的だったからである。特に数学・算数は日教組教研集会顧問講師団の遠山啓博士の理論をほとんど丸ごと盗んでいた。しかしそれを逆手にとって、学校現場の労務管理強化と組合破壊に結びつけようとした策動は日教組の勤評闘争をひきつぐ「学テ反対」の大実力闘争によって粉砕され、日教組は大弾圧によって組織をズタズタにされながらも、なおも遠山理論や平和教育・人権教育をもとりこみつつ、家永教科書裁判とも連帯して発展しつつあった。それを根底から叩きつぶすために「切り札」とされたのが、ブルーナー主義(帝国主義的軍拡カリキュラム)だったのである。そして四谷大塚の「予習シリーズ」はこれに完全準拠していた。
結果としてはこの「現代化カリキュラム」はまずアメリカの西海岸などで実施され、たちまち大破産していた。にもかかわらず「輸入」が強行された日本では被害はその何十倍にも広がり、全国津々浦々で何百万人もの「落ちこぼれ生」を出していた。そしてそれが「ゆとり教育」の必要性の口実とされていた。
「大破産」の原因は今ではかなりハッキリしている。1つには科学(教科)の基本があまりにも軽視された。カリフォルニア州で小学校理科の教科書検定委員をつとめた物理学者のファインマン博士は「星には赤・緑・青の3色ある」と書かれていると弾劾していた。「緑色の星」など存在しないし、存在しえない。そういうデタラメがゴマンとある。日本ではこういうデタラメは主として社会科で行われた。もう1つには、結局は「学力の向上」はコンピュータの「大衆的」使用によって実現されるとされた。日本では小学校の算数に「N進法」や「集合論」が取り入れられ、高校数学には「行列・行列式」が加えられた。独占電機大資本を軸とする「情報産業」への過度の期待と教育のそれへの従属だった。
当時のわたしはこれらのことをまだ整理してハッキリ理解はしていなかった。しかし問題点がどこにあるかはわかった。日本の私立中高は「現代化カリキュラム」の押しつけに苦闘し、その反動としての「ゆとり教育」に追随せず、自由な独自カリキュラムの道に大きく踏み出していた。その中学入試問題に依拠した「全解」は圧倒的に正しいと私は確信した。帰国した代表やM部長はこの牙城に踏み込めなかった。やむを得ずカリキュラムの周辺(特にテスト処理)を巨額の資金を投入してコンピュータ化しただけだった。
3 麻布・聖光・学習院戦争
85年入試を我々は「麻布・聖光・学習院戦争」と呼んだ。この3校が大入試改革を断行し、首都圏の中学入試状況が激変したからである。この3校がそれぞれ独自に行った3つの入試改革、すなわち麻布の「2月1・2日両日入試→2月1日単日入試」への転換、聖光学院の「2次入試」の新設、学習院中等科の「2月1日2科目入試→2月3日4科目入試」への移行はその後20年間、今日まで続いている首都圏の私立中入試におけるのべ数千件にのぼる入試改革(入試要項変更)のハシリであり、のちの数千件の「改革」のどれよりも激烈で前向きなものであり、それが3つも重なった。その改革の本質は私立中高一貫校をめぐる社会状況の大変化(交通の発達、私立中受験の「ブーム」の始まり等)に対応し、中学受験の既成秩序(合格難度序列や人気=応募者数の多少)をぶち破り、自校がその突破の最先頭を切ることで全体を活性化させ、その中で新しく有利なポジションを得ようとするものだった。3校とも判で押したように「全体の高揚」を口にした。実は3校ともすごく良い教育内容を持ちながら、開始された「ブーム」の中でむしろ低迷していた。その主たる原因は「既成秩序」の中で相当に有利なポジションにいたために、学校自らその「既成秩序」に安住し、ある種の「特権意識」であらゆる改革を拒否していたことにある。そういう自己(自校)を否定する迫力がすごかった。
3校の共通のスローガンをあえてまとめれば「大学受験教育と人間形成教育の両立」ということであり、そのための「学校の大衆化」だった。
当然にも「改革」は学習院中等科が最も激烈だった。A科長は「共存原理と競争原理の両立」をかかげ、「東大・京大受験」のための進学校化を唱えた。戦前の学習院中高がそうであり、学習院大など戦後に作られたものにすぎないという調子だった。皇室をはじめとする同窓生のコネ入学は全廃を通告された(昭和天皇は学習院卒業後、国内の大学は受験せず、最高の学者たちの「家庭教師」の教育を受けた。そしてそれをかなり長期のロンドン留学で補足した。おかげで彼は一時期かなり「自由主義的」になってしまった。それで即位前に超反動的な「帝王学」の猛特訓を受けた)。
この「改革」はそれに対する反動もまた大がかりで激烈だった。併設大学がOB(同窓会・皇族を含む)と手を組んで大包囲網をつくり、すぐにA科長をクビにして追放した。教務課長(教頭)は間に立って苦労して胃に穴があいてダウンし依願退職となった。こうして「反動」が勝利した。だから学習院中等科は麻布や聖光と異なり、せっかくの改革を実行しながら学校としての教育内容は停滞し、むしろ反動化し暗黒化した。05年入試ではその学習院中等科が学習院女子(20年前には「反動」の側についた)とともに「2次入試」を新設して「焦点」となっている。しかしその「改革」の方向性は20年前と正反対の後ろ向きのものである。
聖光学院の「改革」はカトリック校の大胆な「自由化」の一環だった。生徒からは「リバティー・トム」と呼ばれたT校長(現理事長)は、少数派の第一組合(日本共産党系)と和解して取り込み、生徒自治会を発足させた。反対派はこれを「学校の赤化」だと騒ぎ、教団本部(キリスト教教育修士会)とローマ法王庁に上申した。T校長は解職・降格された。彼は「なぜ解職されるのかわからない。神様と2人だけで話してくる」と言い、礼拝堂に立てこもった。事実上のストライキであり、それが1週間以上続いた。非共産党系で多数派の第二組合が反対闘争を決起し、アッという間に在校生父母の90%以上の署名を集めた。それをめぐって職員会議は左右の教職員の激突となった。大混乱となり数人が血を流して負傷した。女子事務員の110番で神奈川県警の機動隊が出動し学内に入ろうとした。T校長が礼拝堂から飛び出して「学園の自治」を説き突入を阻止した。驚いたローマ法王庁から緊急特使が来て双方から事情聴取し、その場で断を下した。T校長は復職し、反T校長派の理事は全員が解任され外国(パラグアイ等)に追放された。これで聖光の「改革」は3校の中で最もダイナミックなものとなった。その後の大学合格実績の急伸ぶり一つをとってみても、それは麻布を大きく上回った。トップの栄光との実績の格差も大きく縮小した。
麻布の「改革」は教務的に注目されるべきものだった。同校は1970年代前半の学園闘争で生徒と教職員組合側の闘い(当時の「高校紛争」の嵐の中で最も大規模で激しいもの)が、Y校長代行らによる長期ロックアウト、それによる廃校の危機等に対し、渋谷の仮教室での自主授業、機動隊包囲の中でのロックアウト実力突破、大衆団交によって完全に勝利していた。新校長のO氏(物理担当、前労組委員長)は「色の黒い秀才の育成」をスローガンに目覚ましい「教育改革」に乗りだした。その方向は要するに「脱(東大)受験校化」だった。それは何よりも中学入試問題の革命的変化(国語・社会の記述式中心、算数・理科の応用力重視)にあらわれていた。実はこの「革命的変化」は共通一次実施後の東大等の難関国立大入試問題の大変化に見事に対応するもので、長い時間をかけて中学入試問題の主流となっていく。しかし四谷大塚はこれに対応できなかったから中学受験生や父母、それに進学塾は受験を怖がってしまい、開成や駒東に逃げる傾向が強まっていた。その結果、東大合格実績は低下してベストテンの下位をウロウロし、浪人比率が増大していた。しかも麻布は81年からの公立校での「ゆとりカリキュラム」の本格実施に対して「脱受験校化」のタテマエから迎合してしまい、新カリキュラムは英・数・国軽視、体育・技術・芸術重視とした(英語は公立中の「週3時間」に対して「週4時間」)。これは実施1年にして英・数・国から不満が噴き出した。他の私立進学校を調べたら、ほとんどが「ゆとりカリキュラム」を無視し、英語は栄光・聖光など「週6〜7時間」もやっていた。それですぐに英語を「週5時間」に戻すなどした。すると今度は体育・技術・芸術から大文句が出るという調子で教育現場は混乱していた。「改革」はこれらの混乱を「新しい血」(神奈川の生徒)を大量に移入することで突破しようとするものだった。
この改革は大成功した。麻布の東大合格実績は再び紛争時のレベル(紛争時の東大合格実績のレベルの高さは驚くべきものだった)を回復し、現役比率も上がり高位安定した。それだけではない。麻布のカリキュラム運動は、これを機に文部省とのちがいをグングンとエスカレートさせた。89年告示の「個性化・情報化・国際化カリキュラム」による文部省の高校社会科分割・解体攻撃に対する「社会科」の堅持、中1での「世界」という新科目の年間実施、「5日制」実施に反対する6日制堅持。特に中学入試問題の指導要領からの超大幅な「逸脱」は80年代後半に文部省とマスコミの「難問・奇問非難攻撃」の中で最も激しい非難を浴びた。しかし麻布(理科)は屈服せず、全国の私立進学校とともにその最先頭に立って反撃し、文部省の策動を完全に粉砕した(現在の文科省の「学習指導要領=最低基準論」は文科省による「敗北」の自認である)。(つづく)
<問題>
7から整数Aまでの奇数の和と偶数の和を調べました。偶数の和が奇数の和より64大き
いとき,Aの値は【 ア 】です。また,奇数の和が偶数の和より64大きいとき,Aの値は【 イ 】
です。
(04年愛光中)
入試問題に挑戦第129回解答編
<問題>
こずえさんとその子さんは、奈良時代から江戸時代までの歴史の学習のまとめとして、各時代を代表する5人の人物を取り上げ、じこ評価カードをつくっています。カードとカードづくりの参考にした7つの資料を見ながらあとの問いにこたえなさい。
なお、人物名や作品名を答えるときはかん字でもひらがなでもかまいませんが、かん字のまちがいは×となります。
じんぶつA
私のまい日はたいへんにいそがしかった。政治をおこなうだけでなく、天皇の宮殿などで行われる節分、ひなまつり、たんごの節句、七夕などの行事に参加しなければならない。また、他の貴族とのつきあいもたいせつで、よく自分のやしきでえん会をひらいたものだ。でもそのかいあって娘を天皇のきさきにすることができた時には、思わず歌をよんでしまったよ。私の政治はわれわれ貴族のはなやかな生活を守りつづけること。だから他の人々にとってはよい政治とはいえなかったかもしれんな。
じんぶつB
私のそんけいする人はおじいさまである。だから私の政治はおじいさまのつくりあげた幕府をゆるぎないものにすることである。そのために武士や農民にたいしてきびしい決まりをつくり、私の政治に従わない大名をとりつぶしたりした。少しきびしく感じたかもしれないが、私によって国内は安定し人々は安心してくらせるようになったはずだ。私の政治は100点まん点で90点くらいはもらえると思う。
じんぶつC
私は平氏によってなんども命をおとしかけたが、平氏をやぶり幕府をつくることができた。私の政治は御家人の( )を守り、てがらをたてれば新しい( )をあたえることによって、御家人が安心して生活できる世の中をつくること。私は今でもその政治が御家人のためになったと自しんをもっていえるよ。
じんぶつD
私は全国の富と力をどくせんしていた。私はその富と力によって仏教をさかんにして、平和な国をつくる政治をおこなったよ。たとえば都には東大寺と大仏、地方には国分寺をつくらせることにした。農民どもも作業にさんかしてくれた。これは農民も仏にまもってもらえると思ったからにちがいない。私にとっても農民にとってもよい政治をしたものだと今でも思う。
じんぶつE
私はみぶんのひくい武士の子であったので、ずいぶんくろうしたわ。でもいっしょうけんめいにがんばったけっか、天下をとったわ。私の政治は戦いをなくし、農業や商業をさかんにして日本をゆたかな国にすることじゃ。日本中、私の政治をよろこんでくれたと思うが、私が死ぬころにおこなった外国との戦いでは、多くの人にめいわくをかけたかのう。
【しりょう@】
そのご恩は、山よりも高く、海よりも深いほどです。ご恩に感じてめいよをたいせつにする武士ならば、よからぬものをうちとり、幕府をまもってくれることでしょう。
【しりょうA】
・大名は、まい年4月にさんきんこうたいすること。
・大きな船をつくってはいけない。
【しりょうB】
私は、ほかの人と同じようにこうさくしているのに、ぼろぼろの着物を着て、かたむいた家の中に住んでいる…生活をきりつめて生きているのに、里長はむちをかた手にと口までやってきて、おどして税をとろうとする。
【しりょうC】
とりあげた刀などは、京都に新しくつくる大仏のくぎなどにする。村人は仏のめぐみをうけて、この世ばかりか、死んだのちもすくわれるだろう。
【しりょうD】
この世をば わが世とぞ思う もち月の かけたることも なしと思えば
【しりょうE】
仏教をますますさかんにし、人々をすくうために、大仏をつくる決心をした。国じゅうの銅をつかって大仏をつくり、山から木を切り出して大仏殿をつくる。そのことによって、人々とともに、仏のごりえきをえたいと思う。
【しりょうF】
・朝は早くおきて、草をかり、ひるは田畑をたがやし、晩はなわや米だわらをつくり、気をぬかずにしごとをすること。
・酒や茶をかってのんではいけない。
(1) 資料@から資料Fは人物Aから人物Eのいずれかにかんれんする資料です。どの人物にかんれんした資料か、それぞれ番号でこたえなさい。
(ふく数の資料がかんれんする人物もいます)
(2) 人物Aから人物Eまでの人物は、奈良時代から江戸時代にかけてかつやくした人物として、教科書で学習した人物です。人物名をそれぞれこたえなさい。
(7) 人物Bは「私の政治は100点まん点で90点くらいはもらえると思う」とのべいていますが、あなたは彼の政治になん点をつけますか。学校で学習したことや資料をさんこうにしながら、その点数と理由をこたえなさい。
(8) 人物Dは「農民にとってもよい政治をした」とのべていますが、とうじの農民はそう思っていたか思っていなかったか、学校で学習したことや資料をさんこうにしながら判断し、そう判断した理由をこたえなさい。
(04年東京学芸大学附属世田谷中・抜粋)
<解答>
(1)人物A D 人物B A、F 人物C @
人物D B、E 人物E C
(2)人物A 藤原道長 人物B 徳川家光 人物C 源頼朝
人物D 聖武天皇 人物E 豊臣秀吉
(7)〔解答例〕
70点 武家諸法度などによって大名をきびしくとりしまった。また、農民から少しでも多くの年貢をとることで、幕府の財政を安定させようとした。これらにより、大きな戦乱のない江戸時代が長く続くことになったので、高く評価できる。農民にきびしすぎた点を減点。
20点 武士の生活や幕府を支えているのは農民であるのに、その農民に対して、生活のこまかい点まで規制して、年貢を大変きびしく取り立てたのは良くないと思います。また、鎖国をしたため、日本はアメリカ合衆国やヨーロッパの国々から、おくれることにもなったので、20点にしました。
など
(8)〔解答例〕
当時の農民は、「農民にとってとてもよい政治をした」とは思っていなかったと私は思います。なぜなら、当時の農民の生活は、租・庸・調などの税のために大変貧しく、さらに、聖武天皇は、農民に対して、大仏をつくるために労働することを要求したので、より、農民の生活は大変になったはずです。だから私は、農民は、聖武天皇の政治をよい政治とは思っていないと判断します。
奈良時代から江戸時代にかけての歴史の問題です。
じんぶつAは、「娘を天皇のきさきにすることができた時には、思わず歌をよんでしまったよ。私の政治はわれわれ貴族のはなやかな生活を守りつづけること。」から、藤原道長となります。
じんぶつBは、「私の政治はおじいさまのつくりあげた幕府をゆるぎないものにすることである。そのために武士や農民にたいしてきびしい決まりをつくり、私の政治に従わない大名をとりつぶしたりした。」から、徳川家光となります。
じんぶつCは、「平氏をやぶり幕府をつくることができた。」から、源頼朝となります。
じんぶつDは、「仏教をさかんにして、平和な国をつくる政治をおこなったよ。たとえば都には東大寺と大仏、地方には国分寺をつくらせることにした。」から、聖武天皇となります。
じんぶつEは、「みぶんのひくい武士の子であったので、ずいぶんくろうしたわ。でもいっしょうけんめいにがんばったけっか、天下をとったわ。」から、豊臣秀吉となります。
しりょう@は、承久の乱の時の北条政子の演説で、「頼朝公のご恩を忘れるな」と、うったえています。
しりょうAは、徳川家光の時に出された、寛永の武家諸法度です。参勤交代などを定めています。
しりょうBは、山上憶良の貧窮問答歌で、奈良時代の農民の生活がうかがえます。
しりょうCは、豊臣秀吉の出した、刀狩令です。
しりょうDは、藤原道長が詠んだ、有名な歌です。
しりょうEは、聖武天皇の出した、大仏建立の詔です。
しりょうFは、徳川家光の時に出された、慶安の御触書です。
(7)徳川家光が行った主なこととしては、大名をとりしまるための参勤交代(寛永の武家諸法度)、年貢をより多くとるために農民をとりしまる慶安の御触書、キリスト教をとりしまるための鎖国の完成、などがあります。
家光の政治について、江戸幕府を安定させた点に重きをおくか、農民に対するきびしい姿勢に重きをおくかで評価が分かれると思います。また、鎖国に関しても、日本独特の文化の発展に寄与したなどと考えれば、プラスの評価になります。高評価・低評価いずれにしても、一貫性のある文章で、採点の根拠を説明することが大切です。
(8)聖武天皇は、仏教の力で国を治めようとし、そのために、全国に国分寺を、奈良に総国分寺として東大寺を建てさせ、大仏の建立も行いました。この問題では、当時の農民の立場で考えなければいけません。重い税負担に加えて、大仏の建立などのために働かされた、当時の農民からすれば、良い政治とは思えなかったでしょう。